結局最後は死んでしまうのになぜ生きるのか?
小学生の頃、布団に入るたびにこの疑問が頭の中に浮かんで眠れない時期があった。
誰しもが子供の頃に感じたであろう死への恐怖ってやつだ。
目をつぶって死ぬときのことを考えると、真っ暗な暗闇の中に自分がどんどん吸い込まれていくような感じがして、とても恐ろしく感じたのを今でも覚えている。
たまらなくなった自分はある日寝ていた母親を叩き起こし、眠れないことを伝え、冒頭の疑問を投げつけた。
すると、母親はこう言った。
楽しいから、幸せだから生きるんだよと。
自分はこの答えにすんなりとは納得できなかったが、なんとなく死への恐怖が和らいだのを覚えている。人生楽しめたなら死んでもいいんだなと考えられるようになったのだ。
こうして楽しいという感情が自身の生への活力となった。
そうして生きた18年間、生への活力になるこの楽しさや幸せという概念が自分の中で次第に定義されていった。
ここでの楽しさや幸せというのは単純にfunnyに基づくものや生理的欲求を満たした時に感じるものではない。
別にお金持ちに生まれたわけではないが、最低限の衣食住や友達に恵まれ、自分で言うのもなんだが小学生の頃は勉強もずば抜けて出来ていたために承認欲求もわりかし満たされていた。いわゆる欲求五段階説におけるところの欠乏欲求を満たすことは自分が生きる活力に成り得なかったのである。
そこで、大事になってきたのが新鮮、刺激、憧れといった言葉である。
自分が導き出した答え。
それは、楽しいだったり、幸せという感情は
自分が届いていない、満たされていない、その為に新鮮かつ刺激的に感じる何かに憧れ、それに対して近づいて、最終的に手にした時に感じるというものであった。
幸福の理想状態というのは上位者の歓喜に対して見い出すものであるらしい。
けれども、上位者という表現が自分の中で気に食わないのと、全ての幸福をカバーしていない気がしたので、憧れだったり、新鮮という言葉で表した方が自分にはしっくりきた。
旅行が楽しいと思うのは、自分が経験していない、普段生活している場所とは離れた場所に訪れ、そこに新鮮さを感じるから。
スポーツやゲームを楽しいと思うのは大きな試合で勝つことだったり、強くなった理想の自分になることだったりとまだ経験したことのない未知の体験に憧れ、そこに近づくことから感じる。
自分の中でなんとなく感じていることをうまく言語化できていないように感じるが自分は楽しさや幸せをこんな風に認識していた。
そして始まる大学生活。
それは高校時代の自分にとって憧れの存在であった。
大学を入って過ごした数ヶ月。
親元を離れた一人暮らし、自身最西端となる京都の地、高校とは全く違う大学の講義、夜中になっても語り合える新しい友達とサークル活動、その毎日は想像を遥かに超えて刺激的であり、新鮮なものであった。
しかし、夏休みに入ると一変、何もかもが新鮮で幸福だった毎日はただしんどいだけの日々に変わっていく。
楽しかったはずのことが何をやっても楽しくない。
その理由がわからないまま月日が忙しさの中に忘却されていった。
自分が答えにしていた楽しさや幸せには問題があった。
ここでいう幸せおよび楽しさとは最高値を狙うものであるのだ。
憧れであったものに手が届き、新鮮だったものが当たり前に変わると、それは維持するものに変わり、そこには手放すことに対する恐れがあるだけで、実際に感じる幸福度はそれを手にしていないのと変わらない。
大学に入ってからの半年は何もかもが新鮮で死ぬほど楽しかった。
しかし、段々とそれに慣れてしまうとその活動を維持するのにひたすら体力を使うのに対して、かつてのような楽しさを得ることは出来ず、ただしんどいだけになってしまう。
維持する上でも多少の喜びはあったのだが、自分のキャパシティを超えてしんどさが襲ってきてしまったので、負の感情がそれを上回ってしまった。
その結果として、手が届いたものを手放すことになるのだが、いざ全てをやらなくなっても実際に感じる幸福度は不思議なことに手放す前と変わらない。ただ残るのは苦痛からの解放と虚無感のみであった。
分かりづらいと思うので、ゲームで例えてみよう。
ある敵を倒したくて頑張ってレベル上げをするとする。このレベル上げは強くなった自分を夢想するので楽しい。しかし、いざレベル上げが終わって全ての敵を倒せるのが当たり前となってしまうと、ゲームをプレイしている間の楽しさはなくなってしまう。
自分が全てを手に入れたとは言えないが、大学に入って高校時代にやりたかったことはあらかたやってしまい、やり尽くした先には何もないことに気づいてしまうと何に対しても興味が持てなくなってしまう。
憧れの先には何もないことに気づいてしまったのだ。
欲求や憧れという概念が自分から消え去り、何に対しても手を伸ばそうと思えなくなってしまったのである。
別に死にたくはならなかった。死ぬことは全ての可能性を切り捨てることで自分が最も嫌うところであったし、ここまで育ててくれた親のためにも死ぬわけにはいかなかったので、生への執着を捨てたわけではなかった。
そこで、このブログのタイトルにもした通り自分はエピクロス派の考え方がわりかし好きだったので、色んなところにコミュニティを持ち、あらゆるタスクを持っていた頃は全てを手放してアタラクシア(平穏)を手に入れられれば幸せになれると思った。
しかし、いざ全てを手放しても世俗から完全に絶たない限り、周りからの評価、何もしてないという罪悪感、そこから感じる焦燥感に押し潰されてやはり辛さを感じてしまう。ならば世俗から完全に離れてしまえば良いのだが、孤独を忌み嫌う自分には到底出来ない話だった。
そのためにどうやったら幸せに暮らせるのかをひたすら考えに考え、その結果、導き出した答えが二つあるので紹介したいと思う。
まず、何に対しても興味がなくなった時期でも楽しいと思えることが一つあった。それは本当に気の合う人とサシで飯を食べることである。
ここからはアダムスミスの受け売りになるのだが、彼が『道徳感情論』の中で最も大事にしていたのは同感である。
ここでの同感は他者と同じように感じ、考えるという辞書的な意味ではなくもっと複雑な意味は内包しているのだが、相手の感情を自身のものとして捉え、理解することだと思ってOKだと思う。
であるならば、日本語的には共感の方が意味するところは近いと思われるが、原文の訳に従ってやはり同感を用いたい。
そして、この同感が起きると感情を理解した側された側、両者に協和の快楽というのが生まれる。これが同感のゴールだ。
この同感によって協和の快楽を得るという体験を最もうまく行えるのが、友達と飯を食べるという行為だったのだと思う。
よって一つ目の結論としては、この同感を大事にしていきたい。
自分のことをわかってもらいたいという思いもあるし、俺は他の人がどんなことを考えているかも知りたい。
だからこの記事を書いたというのはある。
しかし、この同感による楽しさはあくまで刹那的な快楽である。
刹那的な快楽であれば美味しいものを食べれば自分も感じるし、刹那的な快楽だけを追っては際限がない。結果として多くの不快・苦痛を生み出し、快楽より不快が勝ることになるのは自明であり、根本的な解決にはなり得ない。
そこで人間が尊厳を持って生きるためには、やはり何かに憧れ、それに向かって歩みを進めることが必要であるはずだ。
これが第二の結論であるが、何に対しても無意味に感じるようになり、欲求を持てなくなった自分にそれを見出すのは難儀である。
そこで僕に答えをくれたのはウォルト・ディズニーであった。
ディズニーランド。
それは自分にとって永遠の夢の国である。
幼稚園の頃に書いていた親との交換日記に誕生日はディズニーホテルに連れていって欲しいと書いていたことを最近発見したが、それからあいも変わらずディズニーが好きなんて自分でも笑ってしまった。
ディズニーランドが本当に夢の国であるかどうかはここでは関係ない。幼稚園の頃から今に至るまで飽きることなくディズニーが好きであるという事実が大事なのである。
資本主義の権化であり、労働環境におけるブラックな実情がまことしやかに囁かれている昨今のディズニーランドが突き詰めれば何ものでもないことは自分でもわかっている。
それでも、何もないと分かった上で自分はやはり好きなのだ。
これを憧れといわずしてなんという。
自分の中の結論として、合理的にものを考え、手に入れた先について考えてしまえば、全てのものにおいて残るものは何もない。
なぜなら、結局死んでしまえば、全てのものは価値を失うからだ。
こんなことを言うと、死んでも残せるものはあるじゃないかという人はいると思うが、死んでしまったら残したものに価値があったかなどどうして分かろうか。
これに関しては自分の人生経験の無さが導き出した答えであることは重々承知であるが、まだ二十歳にもなっていない青二才にはやはり理解出来ない。
もちろん後に残る人間に自分の価値を見出す人を否定する気はさらさらない。例えまやかしであっても自分の価値を見いだせる子供という存在は自分も持ってみたいですしね。
そこで、話を戻すが極めつければ全ての事象が価値を持たないのであれば、盲目的に憧れられる存在を見つけるべきというのが自分の答えだ。
自分にとってのそれがディズニーであった。
ディズニー以外にでも千葉ロッテマリーンズが他の例として挙げられる。
彼らが優勝することは自分にとってなんの価値も持たない。
それでも、自分は応援し続ける。マリーンズが本当に好きだから。
マリーンズもディズニーも本当のところは自分に与えてくれる価値は何もないかもしれない。それが分かった上でも、好きでいられ続ける、憧れ続けられる。それが本当の好きということなのだと思う。
だから、とりあえず直近の目標はディズニーホテルに泊まることにしよう、最終的にはディズニークルーズに乗りたいし、マリーンズの優勝も見たいなと自分の本当の好きに憧れを持たせることで最近は生への活力を見出せるようになってきた。
しかし、これらの憧れではやはり十分ではない。外的なものに依存しているからだ。
本当の意味で、尊厳を持って、健康に生きていくためには、自分の中に憧れを見つける必要があると思う。
なりたい自分、理想の自分を見つけるということだ。
それは正義の味方でも、大金持ちでもいい。盲目的に憧れられる理想の自分を見つけたとき、人は幸せに生きられると思うのである。
やはり理想の先には何もないかもしれない。
それでも価値ある自分になるために今日も私は盲目に生きている。